マレーシアのデジタル変革に関する戦略的報告書:現状、成長要因、および国家戦略の分析

1.0 マレーシアのデジタル経済:定義と本報告書の目的
マレーシアの国家イニシアチブ「MyDIGITAL」(2021年)は、デジタル経済を 「個人、企業、政府によるデジタル技術の生産と利用を含む経済社会活動」と定義しています。 この定義に基づき、本報告書はマレーシアのデジタル経済の現状を多角的に分析し、 その成長を支える主要な国家戦略と、社会全体でのデジタル技術の導入動向を明らかにすることを目的とします。
構成としては、まずICTセクターが国家経済に与えるマクロな影響を概観し、 次に国家戦略イニシアチブを詳述します。続いて、個人と企業のレベルでの 具体的なデジタル導入状況を分析し、最後に未来志向の国家ビジョンである 「AI国家構想」を探ります。
1.1 ICTセクターの経済的貢献
情報通信技術(ICT)セクターは、マレーシア経済における主要な柱となっています。 「Chart 1」のデータによれば、2022年にはGDPの22.6%を占め、2023年には23.5%というピークに達しました。 2024年も23.4%と高い水準を維持しており、マレーシア経済のデジタル化が 一過性のものではなく構造的変化であることを示しています。
ICTセクターが経済全体の約4分の1を占める状況は、デジタル変革が国家の持続的成長と 競争力向上の鍵であることを裏付けています。
1.2 国家戦略イニシアチブの必要性
この顕著な経済成長の背景には、政府が主導する戦略的取り組みがあります。 次章では、ICTセクターの成長を支える国家戦略イニシアチブを掘り下げ、 マレーシアのデジタル基盤がどのように構築されてきたかを分析します。

2.0 国家戦略イニシアチブ:デジタル基盤の構築
マレーシアのデジタル経済の成長は、政府主導の戦略的イニシアチブによって支えられています。 デジタルインフラの整備とエコシステムの育成という二つの側面から、 国民および企業がデジタル化の恩恵を享受できる環境を整備しています。
2.1 国家デジタルネットワーク計画(JENDELA)
国家デジタルネットワーク計画(JENDELA)は、全国民に高品質な固定およびモバイル インターネットサービスを提供し、デジタル格差を解消するための包括的インフラ整備計画です。 フェーズ1では4G基盤強化、フェーズ2では地方部の接続性拡大と5G展開準備が進められています。
以下は、主要業績評価指標(KPI)と達成状況です。
| 主要業績評価指標 | 2025年目標 | 達成状況(2025年7/8月時点) |
|---|---|---|
| 人口密集地域における4Gカバレッジ | 98.5% | 98.82%(目標超過) |
| 光ファイバー敷設済み施設数 | 900万施設 | 948万施設(大幅超過) |
| モバイルブロードバンド速度(中央値) | 100 Mbps | 約150.10 Mbps(大幅超過) |
| 人口密集地域における5Gカバレッジ | DNB管理下 | 約82.4% |
JENDELAは高速通信環境を整備し、動画ストリーミングやSNSなどデータ集約型サービスの普及を可能にしました。 これにより高度なデジタルサービスの展開基盤がほぼ整備されています。
2.2 国家Eコマース戦略ロードマップ(NESR)
NESRは、国内Eコマースエコシステムの構築から越境貿易の拡大までを含む国家行動フレームワークです。 特にMSMEのデジタル経済参加を促し、デジタル競争力の強化を目指しています。
- デジタル競争力強化(T2):2,425,874社のMSMEがEコマースを活用。デジタル投資額162億リンギット。
- デジタルインフラ整備(T3):人口密集地域の5Gカバレッジ 82.4%。
- デジタル人材育成(T4):「MyDIGITALMaker」により160万人が教育支援。
- 包摂的デジタル社会(T5):個人インターネット利用率98.0%(2024年)。
- 信頼性・安全性の向上(T6):NCSC設立、PDPA改定など。
NESRは単なるオンライン取引の促進にとどまらず、ビジネスのデジタル化、デジタル人材育成、 安全な取引環境の構築など、広範なエコシステムの成長を支えています。
3.0 デジタル導入の現状:個人・企業の動向
国家戦略の成果は、個人および企業レベルでのデジタル技術利用状況を分析することで評価できます。 このセクションでは、マレーシアの個人、世帯、企業におけるICTアクセスと利用動向を検証します。
3.1 個人および世帯におけるICTのアクセスと利用
2024年の調査によると、マレーシアの世帯におけるICT機器およびサービスへのアクセスは非常に高いレベルに達しています。「Chart 4.1」のデータが示す通り、携帯電話(99.5%)、テレビ(99.5%)、ラジオ(99.5%)はほぼ全ての世帯に普及しており、インターネットアクセスも96.8%と極めて高い普及率を誇ります。これは、デジタルライフスタイルが国民生活の標準となっていることを示唆しています。
一方で、「Chart 4.2」のデータを見ると、都市部と地方の間には依然としてデジタル格差が存在します。特にインターネット(都市部98.8%、地方90.3%)とコンピューター(都市部94.9%、地方83.2%)のアクセス率において差が見られます。しかし、地方におけるアクセス率も着実に向上しており、格差是正に向けた取り組みが一定の成果を上げていることがうかがえます。
個人のインターネット利用動向に目を向けると、2024年にはいくつかの注目すべき変化が見られました。
1. 性別による利用状況: 男女間のインターネット利用率の格差は、2023年の1.0ポイントから2024年には0.8ポイント(男性98.4%、女性97.6%)へと縮小しました。これは、デジタル分野におけるジェンダー間の公平性が改善していることを示す好ましい傾向です。
2. 年齢層別の利用状況: 20~24歳および35~39歳の年齢層で利用率が最も高く、99.6%に達しています。特筆すべきは、60歳以上の高齢者層における利用率が、前年の86.9%から91.6%へと著しく増加したことです。これは、デジタルサービスが高齢者層にも浸透し、世代を超えたデジタルインクルージョンが進んでいることを示しています。
3. 主な利用活動: 最も人気のある活動はソーシャルネットワークへの参加で、利用者の99.7%が経験しています。次いで、画像、映画、動画、音楽のダウンロード、またはゲームのプレイやダウンロード(94.3%)、商品やサービスに関する情報収集(93.0%)が続いており、インターネットがコミュニケーション、エンターテインメント、消費活動の中心的なプラットフォームとなっていることがわかります。
3.2 企業におけるICTおよびデジタル技術の導入
マレーシアの企業部門においても、デジタル化は着実に進展しています。「Figure 4.3」のデータによると、2022年から2023年にかけて、コンピューターの利用率は95.9%から96.6%へ、インターネット利用率は93.3%から94.0%へ、そしてウェブサイトなどのウェブプレゼンスを持つ企業の割合は71.4%から72.7%へと、それぞれ微増しています。これは、規模や業種を問わず、ビジネス運営におけるデジタルツールの活用が標準化しつつあることを示しています。企業のウェブプレゼンスの形態は、セクターごとに異なる戦略が取られていることが「Figure 4.5」のデータから明らかです。製造業は自社ウェブサイトの所有率が72.6%と最も高く、自社のブランドや製品情報を直接発信する傾向があります。対照的に、農業セクターではソーシャルメディアの活用が87.8%と突出し、顧客との直接的なコミュニケーションやコミュニティ形成を重視していることがうかがえます。また、サービス業ではEマーケットプレイスの利用が49.6%と高く、既存のプラットフォームを活用して効率的に顧客にアプローチする戦略が主流となっています。
企業活動で導入されている具体的なデジタル技術を見ると、2023年には以下の技術が特に広く利用されています。
- モバイルインターネットと技術: 73.6%
- ソーシャルメディア: 70.6%
- クラウドコンピューティング: 59.8%
これらのデータは、企業がモビリティを重視し、顧客エンゲージメントのためにソーシャルメディアを活用し、そしてデータ管理や業務効率化のためにクラウドサービスを導入するという、現代的なデジタル戦略の三本柱を明確に示しています。
これらの現在の利用動向と、特にモバイルインターネット(73.6%)やクラウドコンピューティング(59.8%)といった基盤技術の広範な企業導入は、マレーシアが次なるデジタル変革のステージに進むための強固な土台を形成しています。この土台は、来るべきAI戦略の構築に不可欠な技術的基盤とデータエコシステムを創出するものです。次のセクションでは、この基盤の上にマレーシアがどのような未来を描いているのか、特に国家戦略の核として位置づけられているAI国家構想について詳述します。
4.0 未来への軌道:AI国家としてのマレーシア
マレーシアは、これまでのデジタル化の成功を土台に、経済社会発展の新たなフロンティアとして人工知能(AI)を明確に位置づけています。単なる技術導入にとどまらず、AIを国家運営、産業競争力、そして国民生活の質の向上を牽引する中核的な駆動力と捉えるこのビジョンは、国の未来を形作る上で極めて戦略的な重要性を持ちます。本セクションでは、マレーシアが目指すAI国家の具体的な姿とその実現に向けた戦略的枠組みを論じます。4.1 2030年に向けたビジョン:包括的かつ持続可能なAI国家
第13次マレーシア計画(RMK13)において、マレーシアは2030年までに「包括的かつ持続可能なAI国家」となるという野心的な目標を掲げています。これは、AI技術を社会経済開発、国家行政、そして国民の日常生活に全面的に統合した国を意味します。このビジョンの中核には、単なる技術消費国ではなく、イノベーションを創出し、「Made by Malaysia」の製品とサービスを生み出す地域ハブとしての地位を確立するという強い意志があります。4.2 AI国家開発フレームワークの戦略的柱
このビジョンを実現するため、AI国家開発フレームワークは3つの主要な推進力に基づいています。これらは、経済成長の加速、国民生活の質の向上、そして優れたガバナンスの強化という、国家発展の根幹をなす要素に対応しています。* 天井を引き上げる(Raising the Ceiling) この柱は、AIと先端技術を活用して経済成長を加速させることに焦点を当てています。具体的には、現地の技術を基盤とした高付加価値な製品・サービスを創出し、国際競争力を強化することを目指します。これにより、高度なスキルを持つ雇用の機会が生まれ、労働集約型経済からの脱却と生産性の向上が期待されます。
* 床を引き上げる(Raising the Floor) この柱は、AI技術を社会の隅々にまで浸透させ、国民一人ひとりの生活の質と社会的流動性を向上させることを目的としています。応用例として、教育分野では個々の学生に最適化された学習体験を提供し、医療分野ではビッグデータ解析による早期診断や個別化治療を可能にします。また、国土安全保障においては、AIを用いたサイバー脅威のリアルタイム検知により、国民の安全を確保します。
* 優れたガバナンスを強化する(Strengthening Good Governance) この柱は、GovTech(ガブテック)の推進を通じて、行政サービスのあり方を根本から変革することを目指します。AIなどの先端技術を導入することで、行政手続きの効率性、透明性、迅速性を高め、国民やビジネス界と政府との連携を強化するデジタル政府エコシステムを構築します。これにより、国民はより質の高い公共サービスを享受できるようになります。
4.3 AIエコシステムを支える5つの開発要素
上記の3つの戦略的柱を具現化するため、フレームワークは以下の5つの主要な開発要素を特定しています。これらは、AI国家の実現に向けた具体的な行動計画の基盤となります。- 1. 政策の策定
- 2. 人材開発の強化
- 3. デジタル・データインフラの向上
- 4. デジタル信頼性の構築
- 5. 戦略的投資の強化
5.0 戦略的統合と結論
本報告書は、マレーシアのデジタル変革が多層的かつ戦略的に推進されている実態を明らかにしてきました。ICTセクターがGDPの23%以上を占めるまでに成長した経済的インパクトは、その変革の力強さを物語っています。この成功は、**国家デジタルネットワーク計画(JENDELA)**による堅牢な通信インフラの構築と、**国家Eコマース戦略ロードマップ(NESR)**によるビジネスエコシステムの育成という、両輪の国家戦略によって支えられています。その結果、個人レベルではインターネット利用率が98%に達し、企業レベルでもデジタル技術の導入が着実に進むなど、社会全体で高いデジタル導入率が実現しています。そして今、マレーシアはこれらの成果を土台に、2030年までに「包括的かつ持続可能なAI国家」となるという明確な未来像を描いています。
この力強い進展は、マレーシアに大きな機会をもたらしています。整備されたデジタルインフラと国民の高いデジタルリテラシーは、AIをはじめとする先端技術を社会に実装し、新たなサービスや産業を創出するための絶好の土壌となります。しかし、同時に潜在的な課題も存在します。AI時代の国際競争を勝ち抜くためには、高度な専門知識を持つAI人材の育成が急務です。また、都市部と地方におけるアクセス格差の完全な解消や、デジタル化から取り残される人々が出ないようにするための包摂的な政策の継続も、今後の重要な課題となるでしょう。
総括すると、マレーシアのデジタル経済は、明確な国家ビジョンと着実な戦略実行に裏打ちされた、力強い成長軌道に乗っています。インフラ整備からエコシステム育成、そして未来志向のAI戦略へと続く一貫したアプローチは、持続可能な発展モデルとして高く評価できます。今後、人材育成やデジタル格差の解消といった課題に適切に対応していくことで、マレーシアがASEAN地域におけるデジタル経済のリーダーとしての地位をさらに強固なものにする可能性は極めて高いと言えるでしょう。






